#アイマス学会in札幌 :Tales of Cinderiaについて Side:北条加蓮(2/6)
白神です。
「アイマス学会」でのシンデリアについての発表のブログ版の続きです。
目次
1. Introduction
(https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2019/10/29/025240)
2. Side:北条加蓮(本記事)
3. Side:工藤忍
(https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2020/02/20/205602)
4. 北条加蓮と工藤忍
(https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2020/02/20/224259)
5. Side:渋谷凛
(https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2020/02/22/003218)
6. Side:大槻唯
(https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2020/02/22/010956)
2. Side:北条加蓮
加蓮については「コピー」、あるいは「イレギュラー」の話を中心にお話します。
なんやかんやあってホウジョウ・カレンが「オリジナル」と「コピー」に分裂したわけですが、
「オリジナル」が「現在」の加蓮、
「コピー」が「過去」の加蓮に対応するものとして
話が進んでゆきます。
「私が捨てた~」のようにマイナスなことを言っているようで、
でも結局は「でも、もっと輝きたいと~」のように
「悪」とは断じないわけです。
「コピー」、つまり「過去の自分」は「今の自分」に不要なものである。
これがコピーの心の奥底にある考えです。
例えばリンとの邂逅に際しても「憎悪で拒絶されることを、望んでいた。」と
独白してみたり。リンに名前を呼ばれて喜んだり。
ホウジョウ・カレン、あるいは北条加蓮にとって(体が弱かった)過去は暗いものであり、
「輝く」ための枷となる。「乗り越え」られ「捨て」られるべきものである。
ーーーそう思っていた時期もあった。しかし今は違う。
ここが北条加蓮にとってのこの物語の核であると思っています。
過去は自分を構成する一部であって、それが暗いものだったとしても
それがなければ今の自分はいない。過去は捨てられるべきものではない。
この信念を今一度過去の自分に向かって表明すること。
これが、本作に於いてホウジョウ・カレンに与えられた役割であると考えています。
Tales of Cinderia、副題:「真実の強さが集う公演」。
北条加蓮の持つ真実の強さは
「過去の自分を否定するわけでなく
受け入れたうえで前に進む強さ」
であるとして北条加蓮編(本編)は終わります。
で、ここからは時間の都合上発表で話せなかったけど
シンデリアでめちゃくちゃ推したいところ。2シーンあります。
リンと命のやりとりをしているシーンで突如挟まれる「フライドポテト」の文字。
私が気づいてないだけかもしれませんが
伏線とか何もなく急に出てくるんですよね。ギャグか?
ここで2つほどここでの「ポテト」についての私の考えをご紹介。
①について
「北条加蓮」と「ポテト」。ここの繋がりが強いことに異論はないでしょう。
であれば。役「ホウジョウ・カレン」と「ポテト」の繋がりが強くても
不思議ではない。
作中のアイドル「ホウジョウ・カレン」もまたフライドポテトが好きなアイドルとして
名を馳せているとするならば「フライドポテト」をその象徴とし、
「まだ食べたことない」を
「私はまだアイドルとして成功していない」という意味で
読み替える事にも無理はないでしょう。
②について
大枠はこちらの記事で書いた「北条加蓮」と「ポテト」の関係について
読んでいただければ。
https://tsukumowhite-blog.hatenablog.com/entry/2019/05/13/014101
コピーは「オリジナルの『記憶』は持っているがその『経験』はない」という
設定があります。
これを病室に籠りきりだった加蓮の「病室の外の『知識』は持っているが
『経験』はない」という状態と重ね、「北条加蓮」とのリンクを
想起させる意図があったのではなかろうか、ということです。
あくまで「ホウジョウ・カレン」は「ダンスが苦手だった」
程度であると認識しています。
スライド中にある「矜持」は本当にデレステの「薄荷」のストーリーコミュを
参照してほしいのですが、アイドルとして活動するとき
自分が昔ひどい病気をしていたということは
表には出したくない、というような描写(うろおぼえ)があります。
そのためにそれと差し替えても差し支えない、そしてそれを連想させることも
できる「ダンスが苦手だった」という設定を持ってきたのではなかろうか
ということ、また「昔大きな病気をしていた」と知っていれば
そうも見える表現があったりすること、個人的に推したいポイントです。
以上、工藤忍編へ続く...